昭和40年05月16日 朝の御理解
真の信心とか真の助かりを、真の平和とと言った様な事、真(しん)と真(まこと)と、ね、所謂本当の信心とか本当の助かりとか、本当の平和と言った様な意味の言葉が使われます。真の平和拝詞な拝詞を奏上致しましても、世界真の平和というのが御座います。確かにこの只の平和と真の平和というのは違う、幸せでもそう幸せになると言う事と、真の幸せになると言う事は、私は違うとこう思うですね。
一般の人が言っておるような例えば幸せと、只々の幸せ信心でいう幸せというのは真の幸せ。真の幸せを私は願われる信心、それは自分の事だけではなく、人の事も自分の事として祈れれる。そういうおかげを頂きたいとこう思うですね。昨日金光青年という雑誌が参りました、ね、大阪に泉尾教会という教会がある、世界に伸びる金光教泉尾教会と、そりゃ大した教会がある。
お広前がなんと400畳。私も大阪に参りました時に寄らして頂いたんですけれども、すぐにその何て言うですかね、まあ金光教的じゃない様な金光教です。だから教団内でもいろんな非難もやっぱあるですね。もう一番行ってちょっと変わった感じが致しますのは、とにかく高い高い塔が造ってあるです。祈りの塔というのがある。ここの先生が矢張り変わっておられるんですから世界平和会議と言った様な、世界のそうした人達又は、宗教関係と、もう金光教という本部教庁を離れてです。
いわゆる泉尾教会だけの立場で、あちらにいわゆる概要視される。今度もアメリカにそこの若先生と親先生とお二人で、世界平和会議かなんかに臨まれると言う様な事が書いてございます。非常にまあいうなら積極的な先生なんですね。ですからその教会に表れておる事も矢張りそうです。例えば去年の年末になんか困っておる難儀な人たちの所に、そのうお正月のお餅を配られたと、それがなんと4石のお鏡餅を300個50の家族に配られたとこういう。
非常にそのそういう、なんか奉仕団がありましてですね、丁度天理教のあの天理教というはっぴを着てから、外へ外であのひのきしんをなさるようなです、と言う様なふうに奉仕団というものがあって毎日その、大阪の町に出てですね、いろんな奉仕をされるらしいですね。所謂お道の生き方とちょっとその違ってるけれども、それが素晴らしい一つのアイデアとなってですたい、矢張り人気をよんでおるちゅったらおかしいですけれども、沢山のお参りがやっぱあるそうですね。
その代り例えばあの、七五三のお祝いなんかでもですね、矢張りそのなさるとか、信心のない者でもそういう、まあそれこそ交通安全のお守り札でも出やせんかと言った様な感じのその教会なんです。本当素晴らしい事だと私思うんですね。けれども私は思うんですけどもね、例えば世界の平和を祈るというてもです、私はただその平和を祈る平和を祈るだけではいけんと言う事です。
矢張り真の平和を祈らして貰わなければいけないと私は思うんです。ね、只なら皆さんの信心がですたい、どうぞ今日も平穏無事とこういう、平穏無事だけを祈ったってダメだと言う事、それは丁度濁った水を、待っておればじっとこう下にゆさってしまって、上澄みだけが奇麗になるようなものです。ね、平穏無事だけを祈るというのではない、もし濁る元があるならば本気で濁るも良かろう。
そしてその濁る元をです追求する、その濁る元を私は取り払って頂くと言う様な信心でなからなければ真の信心というのじゃなか、ないじゃなかろうかとこう思います。どうぞ今日も平穏無事にと言う事だけを祈るというのではなくてですね、ね。家庭の平和と世界の平和というだけではなくて、家庭真の平和であり世界真の平和を祈らして貰うにはどういう態度どういう姿勢がです、その信心には必要かと言う事になる。ね、
例えば平和を祈るためにです、例えばそうした積極的な働きかけと言う事もあるんですけれども、私金光様の御信心はもっともっと積極的だと思う。いうならば超積極的だとこう思う。例えば難儀な人達があるならばです、難儀な人達にです、例えばならその正月の、餅でも配って歩くと、実に積極的なんですけれども、私にいわせるならば、私はそれは反対ですね。
そしてひと飾り物やお鏡さんを貰ったからといって、どうこうと言う事じゃあない。その人達の真実の幸せを願うならば私はそうは致しません。そちらへ向けるのを神様に向けます。ね、例えば難儀をしておられる方達があるならばです、その難儀をです自分達の力で癒してあげられるならばいざ知らずだけれど、自分達の力じゃ出来ませんもん。ただ痛い所撫でさする、ちょっとしてあげられる様なものだけだもん。
根本的な助かりと言った様なものではない。お道の信心はどこまでも、例えばこの御結界の奉仕者がです、矢張りここ畳半畳の中を自分の修行場と、決め込ませて頂く信心積極的に外に働きかけていくのではなくて、もうとにかく内なるものが燃えたぎっておって、真実の助かりを求めてくる氏子の上に確実にです、その幸せをを道を開いてやり、幸せを与えていくというものがお道の信心だと。
その先生が言っておられる事、まあ私はこれは丁度こう私と対照的ですから、私の考えとはいかにもこちらが悪く、悪口みたいになりますけれども、それは悪口じゃないです。そりゃそれぞれの矢張り性格と申しましょうかね、生き方というのがありますから、どちらがええと言う事は、まあ言えませんけれども、私はかく信じかく思うというのである。あらゆる場に、その出張していかれるわけですね。
積極的に働きかけられる。そして言うておられますのはそこを御結界だと、いう風に頂いておられる様ですね。だから私の場合はその辺がちょっと違うですもんね。お互い折角信心をさせて頂くので御座いますからです、私は真の助かりね真の幸せを願うての信心でなからなければならない。成程世界情勢を眺めましてもですたいね、ベトナム戦線の事などをおも、思うてもです本当にやはり祈らなければおられません。ね、
けれどもそれがです、それが世界のめぐりのお取払いになっておる事であるならば、私はそこん所をですあえてどうぞ、所謂反戦論ばかりではいけない、戦争がないように戦争がない様にというだけではいけん、ね、とは知っても戦わなければならない事は解ってです、ね、そこから巡りのお取払いを頂いていく、そこから真実の立ち上がりが助かりがですよ、出来て来るならその事こそ本当の事じゃないかと。
ですからその真実の、世界真の世界の平和を祈ると言う事はです、ただその平和会議にばかりに出席する事ではないと、ね、戦争を奨励するのではないけれども、ね、世界の世界中にそういう一つの難儀、世界の難儀です、ね、そういう難儀の元というものを思わせて貰う時にです、ね、矢張り家庭の上にも井戸は清水になるまでと、病気災難は根の切れるまでと仰る様にです、世界真の平和もやはりその事、ね、
様々なそうした世界の難儀という、いうなら至る所までおかげを頂いて行く為にはです、矢張り井戸ざらいが必要であると言う事です。これ以上巡りを作る様な事があってはならない。これ以上世界の難儀が起こって行く事の為に、の巡りを作る様な事であってはならないけれども、巡りのお取払いをお取払いとしてです、私は御礼を申し上げて根限り、世界井戸ざらいがなからなければならないと、いうならばそのベトナムのでの血で血を洗うような戦いの様というものをです。
私共が向こう岸の火事を見るような気持ちではなくてです、真実自分の事として祈る自分の事としてお取払いを頂いて有りがたしという、御礼を申し上げる所は御礼を申し上げていき、今こそ井戸ざらいをさせ、世界の井戸ざらいがあっておるんだという意味合い、そういう見地にたっての平和を祈らなければいけない。私はそういう気がするんです。ね、これは家庭の上においても同じ事です。ね。
様々な結局お道の信心はです、その難儀そのものの中にです、神様を見難儀そのものの中に、信心を頂いて行くということ、ね、そのお取払いの事に対して御礼を申し上げて行くと言う事。家庭の中にもこれは自分の心の上にも同じ事が言える。例えて言うならば、子供が自分の言う事を聞かないと、家内が自分の思う様にならない、うちの主人がと例えば言った様な事柄の中からでもそうである。ね、自分の家のめぐりを目の当たりに見ておるようなものである。ね、
どうして言う事を聞かんであろうかと言う前にです、ね、神様がこうしてめぐりのお取払いを下さっておるんだと言う所に心が安らいでいく、御礼を申し上げる心が生まれてくる。それが真実お取払いともならして頂いてです、根限りのおかげを頂けた時に、その子供の助かりもありゃ、家内の主人の助かりも、私はある事を信ずる、それこそが真の助かりなのだと。ね、
ちょっと言うて聞かせてから、そこん所だけをおさえる程度の助かりでは、それは本当の事ではないと、根本的にの助かりをもって私は真の助かりだとこう思うのです。それがです段々自分だけの事ではない、自分一家だけの事ではない人の難儀な事でもです、自分の難儀としてそれを祈れれる信心。どうぞこの人が早う幸せになんなさる様にというのではなくて、どうぞその人がです真の幸せになられる様にと言う事である。ね、
ま極端な話をするならばです、いわば物乞いにくる人があるとはそれを幸せを願っておるというだけならば、ああ寒かろう暑かろうひもじかろうと言うて、そのそれに例えば食事を与えるとするか着物を与えるとするか、ね、是はその物乞いをする人に対していつまでたっても、あなたは物乞いをから抜けれられない様にして、よるやる様なもの。ね、それよりもむしろ、与えずに祈る事である。
本人がです物乞いなんぞ人、人にお世話になるようであっちゃあならんと、本人自身の心の中にです、元気な心を呼び起こさせる働きこそ真の助かりだとこう言う事、そうでしょうが。それは冷感というようなものでもなからなければ、親切でないというものでもない、親切以上の親切でありと、言う様な私生き方がです、お道の信心のような気がする。しかしまあよくよく考えてみますとです。
天地の親神様のお働きの中にはです、矢張りその泉尾のような生き方もあるでしょう、また、私が言う様な生き方もあるでしょう。ね、同じ愛というても親の愛というても、母性愛的な愛もあれば、父親の厳しい愛もあるようにです、その両方がです何とはなしに、こう、結論は同じ事に到達して行く様なです、真の平和につながって行く様なです、真の助かりに繋がりをもっておるような意味合いにおいてです。
なされていかなければなりませんが。そこらへんが中々どうして難しい所だとこう思うんですけれども、私共何というてもと言うてなら今日一日のです、平穏無事を祈らなければおられないですもんね。今日もどうぞ無事でとこう祈らなければおられません。けれどもその腹の底にはです、今日の平穏無事を祈りながらもです、もし様々な難儀が例えば起こってきた場合でもです、それを毅然として受けるだけの態勢その時に、やれ痛やという今みかげをという心。
今こそ巡りのお取払いを頂いておるんだと受けて立てれるだけの内容がなからなければならないと言う事。ね、だからこれは私その泉尾の生き方と、私の考えと2つこうお話したんですけれどもです、ね、それがどっちもどっちともならずんですね、天地の親神様のお心を内容とすると言う事になって参りますと、只今私が申します様な事に成って来るのじゃないだろうかと。ね、して結局は矢張り真の平和を祈ってからの、願ってからのそれであると言う事になります。
ただ生き方は少々違う様で御座いますけれどもです。ね。お互いの真の助かりと、に、今日一日の上にもです、商売をしておるなら商売繁盛を願わなければおられません。今日旅立ちでもするならばです。どうぞ無事に行って帰れる事を願わなければおられません。けれどもその向こうにはです。真実の助かりと真の幸せと言う事を本当に分からせて頂くときです、その事を願わなければおられませんけれどもです、そのそこにある物に触れていくときです、ね。
祈って守っても自分の祈りが祈りのままにならない。あれだけ信心をするのにどうしてあんな難儀が続くであろうかと、祈っておるにも拘らずそう言う様な場合でもです。そこを有難く受けさせて頂けれる信心、ね、そして井戸は清水になるまでの、おかげを頂く為の信心の内容としてです、そう言う様なものが、日々の信心の中に培われていかなければならないと言う事ですね。
そこに私共の真の助かり家庭の上においては真の、平和円満ねただ不和がないというてただ抑えておるだけの平和ではなくて、もう真の底から平和になって行く所のおかげ。大きく言うたら世界真の平和を祈らせて頂くという内容もです、ね、ベトナム戦線の例えばニュースを聞かせて頂くたびに、金光様天地の親神様にお縋りしなければおられません。けれどもまたそのそこにはです、ね、こうして世界のめぐりのお取払いを頂いておるんだというです、ものもなからなければならないと言う事なんですね。
おかげを頂かなければなりません。